Janis Joplin

伝説のロック・クイーン

ジミ・ヘンドリックスとほぼ時を同じくして現れ去っていった、女性初の本格ロック・シンガーと呼ばれるジャニス。しかし、彼女の目指していた音楽は、ただのロックにとどまらず、ブルース、カントリー、R&B、ジャズなどをミックスした、まったく新しいサウンドの創造にあった。

そのため、幾度となくバンドのメンバーチェンジを繰り返し、常に孤独と闘いながら愛に飢え、酒とドラッグに溺れて、最後には理想のバンドを結成し、名作「パール」を残しながら、日の目を見る前に享年27歳という若さで、この世を去っていったのである。


1943年1月19日米テキサス州ポート・アーサー生まれ。子供の頃は絵を描くのが好きで、なかなかの秀才であったらしいが、型にはまった生活に順応できず、高校を卒業と同時に家出をしている。

それでもアルバイトで生活費を稼ぎながら大学へ通うが、しだいに音楽にはまり出し、大学をやめニューヨークやロサンゼルスのクラブで歌いはじめるようになった。

そんな彼女が心酔していたのは、ブルースの女帝ベッシー・スミスやフォーク歌手レッド・ベリー、女性ジャズ・シンガーのビリー・ホリデイ達であったらしい。またこの頃にヨーマ・コーコネン(後にジェファーソン・エアプレイン結成)と共にフォーク・ブルース・デュオも結成し、活動していた時期もあった。

しかし、音楽とともにドラッグにもかなりのめり込み、64年には静養のため一時テキサスに戻っている。

そんなある日、女性ヴォーカルのシグネ・アンダーソンを看板とするジェファーソン・エアプレインに対抗するべく、女性ヴォーカリストを捜していたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー(BB&HC)に誘われ、66年に正式加入。そして、67年にシカゴのマイナー・レーベルから「アンダー・グラウンドの王者」でアルバム・デビューしたが、いいように丸め込まれ、彼らには1セントも入らなかったらしい・・・。後にこのアルバムはCBSが買い取り、シングルを2曲を加えて「ファースト・レコーディング」として再発売されている。

BB&HCのメンバーは、サム・アンドリュース(g,vo)、ピーター・アルビン(b)、ジェームス・ガーレイ(g) 、デイヴ・ゲッズ(ds)

1967年、ジャニスの名を一躍にアメリカ中に知らしめることになる、モンタレー・ポップ・フェスティバルへ出演。このイベントではジミヘンドリックスと共にハイライトを作り上げ、見る者を釘付けにした。

これがきっかけとなりビッグ・レーベルCBSと契約したBB&HCは、68年ライブ・アルバム「チープ・スリル」をリリース。これが全米8週連続1位という大ヒットを記録。ジャニスもロック界初の女性スーパースターと呼ばれるようになり、人気を爆発させた。

しかし、「馴れ合いが始まって活気がなくなった」「他の人たちが創造を止めてしまった」と説明しながら、ジャニスはこの年サム・アンドリュースとともにBB&HCを脱退してしまう。

その後、サムを中心にジャニス・ジョップリンズ・レヴューを結成するが、長続きせず、メンバーとバンド名をコロコロ変えながら、アメリカン・ツアーを行った。そのメンバーの中にはマイク・ブルームフィールドの名前もある。

結局最後に残った布陣サム・アンドリュース(g)、ブラッド・キャンベル(b)、ロイ・マルコヴッツ(ds)、テリー・クレメンツ(T-sax)、スヌーキー・フラワーズ(B-sax)、ルイス・ガスカ(trumpet)、リチャード・カーモード(kb)でジャニス初のソロ・アルバムを69年に発表。このメンバーをCOSMIC BLUES BANDコズミック・ブルース・バンドと名付けたが、このバンドも2ヶ月後には解散していた。

1970年ついに彼女の理想のバンドFULL TILT BOOGIEフル・ティルト・ブギーを結成。

Brad Campbellブラッド・キャンベル(b)、John Tillジョン・ティル(g)、Richard Bellリチャード・ベル(piano)、Ken Pearson ケン・ピアソン(organ) 、Clark Piersonクラーク・パイアソン(ds)というメンバーで最後となってしまうアルバムをレコーディング。しかしこれがほぼ完成した70年10月4日、ジャニスは1人ハリウッドのホテルで死体として発見された。

理想のバンドに巡り会い、私生活でも婚約するなど、彼女がやっとつかんだ幸せ絶頂期はあまりにも短かった・・・。

この遺作となってしまったアルバムは彼女のニックネームから「パール」と名付けられ、71年に発表されて全米9週連続1位を記録。シングル「ミー・アンド・ボビー・マギー」も初のNo.1を獲得した。(HINE) 2000.10



1967年 Big Brother & Holding Company(ファースト・レコーディング)*騙されて1セントももらえなかったというデビュー盤

1968年 Cheap Thrill(チープ・スリル)*全米8週連続1位を記録したライブ・アルバム。「サマー・タイム」収録

1969年 I Got Dem Ol'Kosmic Blues Again(コズミック・ブルースを歌う)

1971年 Pearl(パール)*遺作となってしまったが、全米9週連続1位を記録した名作。「ジャニスの祈り(ムーヴ・オーヴァー)」収録。

1972年 Joplin In Concert(ジョップリン・イン・コンサート)

1973年 Greatest Hits(グレイテスト・ヒッツ)

1974年 Janis(伝説のロック・クイーン)

1982年 Farewell Songs(白鳥の歌)*67~70年のライブと未発表テイクの寄せ集め

1984年 Cheaper Thrill(チーパー・スリル)*66年、BB&HC時代初期のライブ

1993年 Janis(Box)(ジャニス)



パワフルな歌声と生き様で伝説となった女性シンガー

煌びやかなボヘミアンファッションに身を包み、ときに雄叫びを上げるように、ときに優しく語りかけるように、全身全霊で愛や孤独を歌う……。古き良きアメリカ像が崩れ始め、旧体制に反発する若者の熱で溢れ返っていた60年代後半のサンフランシスコ。そこに強烈な個性をもって現れ、聴衆の心をかっさらっていった1人の女性シンガーがいる。それがジャニス・ジョプリンだ。デビューからこの世を去るまでわずか4年だったにも関わらず、音楽やファッション、生き様、そのすべてにおいて人々を引きつけてやまなかった彼女。今回はそんなロック史上稀に見る歌い手の魅力を、知られざる人生の軌跡とともに振り返ってみたい。

ジャニスは1943年、アメリカ南部のテキサス州で生まれた。中流のサラリーマン家庭に育ち、5歳のときに地元の聖歌隊に所属。早くからゴスペル音楽に触れ、14歳のときにはベッシー・スミスのレコードをきっかけに、ブルースに慣れ親しむようになる。やがて高校に進学、多感だった少女はビートニクカルチャーの洗礼を受け、詩を綴ったり絵を描くことに心酔し、自己実現の欲求を募らせていく。いつしかその熱は歌に注がれるようになり、仲間に黒人歌手さながらのブルースを披露して驚愕させるが、一方でニキビ面の太った容姿をからかわれたり、その特異な性格を否定され酷いイジメにもあっていて、このことは彼女の人生に暗い影を落とした。

高校卒業後は地元の名門、テキサス大学に進学。ブルーグラスのバンドに加わるが、20歳のときに大学をドロップアウトして憧れの地、サンフランシスコへ。人種差別撤廃のデモに参加したり、バーに入り浸り、憧れていたミュージシャンたちの生き方を真似るようになる。またこの頃からソロとしても歌い始め、初めてフォークフェスへ参加。ボブ・ディランに遭遇し、自身も歌手としての成功を強く心に誓うが、日常化していた酒とドラッグの服用によって体調を崩し、静養のため故郷へ送り返されることになる。

しかし彼女の人生はこれでは終わらなかった。音楽業界で活躍していた友人から「新しいバンドを立ち上げるのでボーカルをやらないか」と声をかけられ、23歳でビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの一員としてデビュー。翌年1967年にはモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。ブルースとロックを織り交ぜた独自の歌唱法とパフォーマンスで評判を呼び、センセーショナルを巻き起こす。そしてにリリースされたアルバム『チープスリル』は100万ドルを売り上げ、彼女は一気にスターダムに押し上げられる。しかしそのバンドも2年で脱退、ジャニスはさらなる高みを目指すために、26歳のときに新たにコズミック・ブルース・バンドを結成。社会現象としても取り上げられた伝説のロックフェス、ウッドストックに出演する。ヘロインでフラフラになりながらも、聴衆を奮い立たせるようなアグレッシブなステージを披露。また個性的なファッションセンスでも注目を浴び、ヒッピー世代のアイコンとして迎え入れられる。だがその裏で、新バンドを成功に導くプレッシャーやドラッグの過剰摂取により、徐々に精神のバランスを崩していく。心の拠り所となる恋人がいた時期もあったようが、幸せな期間は長くは続かず、ひとたび舞台を降りると孤独に襲われ、彼女はこう周囲に漏らすようになる。「ライブは幻想。ショーが終われば観客やメンバーは家路につき、そして私はひとりぼっちになる」と。

歌でなら社会に認められる。そう信じ突き進んできたはずなのに、なぜこんなにも孤独で苦しいのだろう。長年の心の葛藤は、ある出来事が引き金となって、人生を大きく狂わせていく。次のバンドが解散した翌年の1970年、ジャニスは高校の同窓会に報道陣を引き連れて出席するのだが、そこでかつてのトラウマを思い起こさせるような悲惨な出来事を経験してしまう。スターとなり10年ぶりに凱旋した彼女に、同級生たちは誰ひとりとして近寄らず、当時と変わらない冷たいあしらいを受けたのだ。「卒業前のダンスパーティだって、誰も私をエスコートしなかったのよ。あれからずっとみじめだったわ」とカメラの前で笑ってみせるジャニス。しかし内心は想像を絶するくらい深く傷ついたに違いない。この事件がきっかけになったかは定かではないが、同年の1970年、彼女はアルコールとヘロインの過剰摂取により、レコーディングのために滞在していたホテルで、ひっそりとこの世を去る。27歳の早すぎる死だった。

幼い頃から異端児として社会から弾かれ、ずっと愛に飢えていたジャニス。差別されることの痛みや辛さがわかるからこそ、黒人たちのルーツミュージックでもあるブルースに強く引かれ、不安や孤独をかき消すために、ドラッグに溺れたのかもしれない。しかし皮肉にも、そんな辛い背景が、彼女にしかできない表現方法を確立させたことも確かだ。不器用ながらも、人生をかけて夢の実現に心血を注いだ彼女。ジャニスのインディペンデントな生き方は、皆と同じことが善しとされる今の時代に、〝人と違うことこそが最大の強みであり、その個性を研ぎ澄ませた者だけが何かを創造でき、成功を手にできる〟という、強いメッセージを送り続けている。

keyword of her 01魂を震わす声とパフォーマンス

ロック史に残る偉大なシンガーとして、今もなお語り継がれるジャニスの魅力。それは何といっても、黒人歌手さながらのエネルギッシュな歌声とパフォーマンスにある。ブルージーなハスキーボイスと高音のシャウトを使い分け、聴衆に訴えかけるように歌う姿は、カウンターカルチャーに湧く当時の若者の胸を強く打った。

keyword of her 02ヒッピームーブメントの寵児に

ジャニスが生きた60~70年代のアメリカは、カウンターカルチャーが隆盛を極めた時代。既存の価値観にNOを突きつけ、自由を謳歌する若者が新たなムーブメントを生み出すなか、モンタレー・ポップやウッドストックなる初の野外ロックフェスも開催。彼女は男性顔負けのパワフルなステージングを披露し、支持を集めた。

keyword of her 03セクシャルマイノリティな生き方

あまり知られていないが、ジャニスが付き合った恋人の中には何人か女性も含まれており、実はバイセクシャルだったという事実がある。今でこそLGBTを隠さない女性ミュージシャンは多いが(st.VINCENTやSokoなど)、当時ではごく少数派。固定概念に縛られることなく、感情の赴くままに生きた彼女らしいエピソードだ。

keyword of her 04後世のミュージシャンへの影響

黒人のルーツでもあるブルースを圧倒的な歌唱と表現力をもって自分のものにする。当時白人には無理とされていたことをジャニスは軽々とやってのけ周囲の度肝を抜いたが、その功績は後に続く新たな才能の希望にもなっていたようで、エイミー・ワインハウスやピンクを筆頭に、影響を公言する女性シンガーは数知れない。

keyword of her 05誰も真似できないヒッピールック

民族調のトップスやフレアパンツを纏い、ファーのヘッドピースやサイケなスカーフ、胸もとにはビーズのネックレス……etc。ジャニスは独創的なセンスを持ち合わせたヒッピー世代のスタイルアイコンでもあった。その着こなしはデザイナーたちのアイディアソースにもなり、現代のトレンドとして反映されることも多々。


keyword of her 06絶頂期に訪れた衝撃的な死

周りと馴染めず、幼少期から“はみだし者”だった彼女。高校や大学でも執拗ないじめを受け、心に深い傷をつくったという。その疎外感はキャリアが成功してからも付きまとい、結果ドラッグを絶つ事ができず、ヘロインとアルコールの過剰摂取により、アルバム制作中に滞在していたホテルで、27歳という若さで急死した。

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